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やっぱり青かったウズベキスタン そしてやっぱりきついウオッカ[2002年11月03日]

羽田より関空、そしてウズベキスタンの首都タシケント向かう。
羽田にて預けた荷物は関空止まりのため、関空にて再度チェックインを行う。
関空より所要時間約8時間のフライトでパキスタンに続き2度目のスタン系の国へ。
タシケントにて入国審査といってもカウンターにてパスポ-トを提示するのみで
質問も一切ない。但し時間はかなり係る。その後、預けた荷物を受け取り
(ここで税関申告書を2枚書かなくてはならない)、X線を通してやっと外に出ることが出来る。飛行機がゲートに着いてから出られるまでゆうに2時間は要している。
そこで初めてガイド(後に分かるのだが実は現地旅行会社の副社長さんだった)さんのお出迎えを受け国内線の空港へ移動かと思ったが(今日の最終目的地はブハラ)
時間があったので両替を含め簡単な市内観光。
時間帯が悪かったのかほとんどの両替所(ホテルも含めて)が休憩中であったため
両替率のさほど良くないシェラトンホテルへ行った。

今回の旅行は1週間、とりあえず$100分でもしておけば・・・と思ったのが大失敗
$100をガイド(何回もいうが副社長)に預けホテルのロビーバーで待っていると
持ってきた札束を見て驚きと共に大笑いしてしまった。
高額の紙幣がないとのことで、厚さ約10cmほどの輪ゴム止めされた札束が9つ。
これを笑わずしてどうしよう。仕方なくそれをデイバックに無造作に放り込み空港へ戻った。
国内線には日本語ガイドが待っており、これからのウズベキスタン内の道中を一緒に周ってくれるとのことだった。
ここで副社長はお役ごめんかなと思っていたら、一緒に同行するとのこと。
(なあーんだ自分も一緒に遊びに行きたかったのか)
空港にてチェックインを済ませ国内線にてブハラへ向かった。

~一口メモ・ブハラ編~
中央アジアのみならずイスラム世界全体の文化的中心地として栄えた町
9世紀のサマン朝時代に始まるブハラの栄華は1220年のチンギスハーンの来襲により衰退した。しかし、16世紀のシャイバニ朝の時代になり再び蘇り、この時代に
今も数多く残るモスクやメドレセが建造された。今でもシルクロードの面影を色濃く残すブハラの町並みは、非常に興味深い都市の一つである。

ブハラ着後そのままホテルへ向かった。今回の宿泊はブハラパレスホテル。
ホテルにはそれほど期待をもっていなかったが、設備・スタッフともなかなか良い。
長い移動で疲れはあったが、「腹が減っては戦は出来ぬ」に習って夕食を食べに皆で出かけた。旧市街のラビハウズのほとりにチャイハネがあり、夜レストランとなっており、そこでケバブを食べることにした。
まずは乾杯。疲れた体にはかなりダメージがありそうな飲み物、ウズベキスタンといえば、そう!ウォッカである。副社長に言わせればアルコール度の高いウォッカは
胃の消毒になるとのことである。現に食事のたびに(もちろん朝からです)ウォッカを飲んだ為か、一度も腹痛にはならなかった。
食事が終わるとすでに12時近い(日本との時差は-4時間、飛行機の中で多少寝たとはいえ、起床したのが5時くらいなので、24時間近く起きていたことになる。
あ~シンド)。もちろんホテルに帰るとそのまますぐに高いびきである。

2日目午前ブハラの旧市街を中心に観光が始まる。
前述したが16世紀から建てられたモスク・メドレセがほぼそのままの形で現存する。
ラビハウズのほとりにある入り口のアーチに独特な絵のあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセはその昔神学校として建てられており、正面入り口の色鮮やかなタイルは目を見張る。
(ここで疑問に思うのは、アーチに描かれている2羽の鳳凰及び太陽の真中に人の顔がある絵は偶像崇拝を否定するイスラム教の教えに反するのではないか?)
砂の中に埋もれていたマゴキ・アッタリモスクの外の壁面は3層に分かれているレンガの模様は、何度が破壊されまた再建した名残だとのこと。
後、印象深いのはタキと呼ばれる屋根付きのバザールである。

バザール自体はたいした物は売っていないが、その建物自体に興味を覚えた。 
また、一番の見どころはブハラのシンボル的建造物のカラ-ン・ミナレットである。

12世紀前半に建てられたこのミナレットは今現在も壊れることなく、ブハラの町を
見下ろしており、ブハラの町のどこからでも見えるのである。
あの破壊王チンギス・ハーンでさえも破壊しなっかた伝説は有名である。
カラーンミナレットとつながっているカラーンモスクやアーチの両脇に2つの青いドームが目立つミル・アラブ・メドレセも青と白が中心のモザイクやタイルは青い空に負けないくらい色鮮やかで細部にまで手が行き届いていることに驚かされる。

さらには古代ブハラ発祥の地であるブハラハーンの居城アルク城や前面の20本の柱の彫刻がすばらしいブハラハーン専用のモスク、バラハウズ・モスクや中央アジア
最古のイスラム建築のイスマイ-ル・サマニ廟(9世紀)、4本のミナレットが可愛い
チャル・ミナルなども目を見張るものだった。
バラハウズ・モスクイスマイ-ル・サマニ廟(9世紀)

午後からは陸路で約4時間の草原地帯ガザフスタンにも近いヌラタ向かう。
その前に市場にて大量の水とパン、ジュースなどを買い込む。もちろんウォッカも忘れていないようだ。こんなに買い込んでこれからどこへ行くのだろうとちょっと不安。
道中は何も変わりばえのない風景だが、そこに近づくに連れ建物がなくなり、
車もまばら、半砂漠(砂の砂漠ではなく瓦礫の多い砂漠)地帯に入った。
舗装された道路はここまで。そこでロシア製のトラックに乗り換え半草原、半砂漠
中へ入っていくこと約30分、そこには5つのユルタが建っている。
(ここで初めて今日の宿泊はユルタだと知る)

ユルタとはモンゴルで言うゲル、中国で言うパオのことで、遊牧民の家のことである。
着いたころにはだいぶ日も傾き、傍らではユルタの管理人が夕食の仕度をしている。
何もすることがない私たちは、そう!おわかりの通りウォッカでの宴会が始まっている。そんなこんなで夕食の準備も整い、星空の下オイルランプ一つのテーブルに着く。期待はしていない食事ではあったが、これが実にうまい。
日本でいえば肉じゃがに似ている。もちろん使われている肉は羊。しかし、臭みは全くなく、今思えば今回の旅の中で一番美味しかったかもしれない。
夕食の後も宴会は続く・・・つづく・・・つづく・・・。
宴会も終わりやっと寝る時間もうすでに12時を回っていたような気がする。
ユルタは1人一つ。20人分位の布団が敷けそうなユルタの真中にポツンと一組の
布団が敷かれており、狼も出るといわれるここいったいでちょっと不安になるが
(酔っていてそんなこと考えていなかったかもしれない。今思えばである。)即就寝。

3日目 起床は5時半ごろ。かなりの寒さとラクダの鳴き声で目覚める。
睡眠不足にもかかわらず気分爽快。やはりウォッカのおかげか?体調万全。
ペットボトルの水で洗顔とちょっとした草むらの陰で用足し。
簡単な朝食を済ませ、いざ出発!!
ラクダに乗って約5キロ。車を乗り換えた場所まで移動する。
普段の目線からも、ラクダに乗ったときの目線でも見えるものは草原とポツリポツリ見える民家のみ。まだ肌寒い風を受け気分は良い。
なかなか言うことを聞いてくれないラクダと奮闘すること約2時間、やっと目的地に到着。

 ここから車に乗り換えサマルカンドへ向かう。
途中、リゾート気分をとのことでアイダルクル湖に立ち寄る。
まだ何も開発手が入っていないここは、小動物の宝庫。
ウズベキスタンの軍隊が管理している小屋の前にテーブルを広げ昼食。
今まさに湖にて釣り上げた巨大なマスを捌いてくれる。
マスの唐あげ、マスのケバブ、マスの卵(イクラ)の生の醤油漬け、そしてウォッカ。
なかなか美味。

食事の後はスイミング。水は冷たいが火照った体には調度いい。
ほんの束の間のリゾート気分ではあったが、楽しいひとときを過ごすことが出来た。
そこから車を走らせること約3時間、サマルカンド到着。
今日の宿泊はアフロシアブホテル。
この町一番というホテルはさすがに良い。
建てられて6年目ではあるが建物の中はどこも清潔感があり、サービスが行き届いている。
夕食は地元でも有名な野外のレストラン。(名前は忘れました)
またまた羊肉中心のメニューであるが、唯一の豚肉の料理(塩・コショウのみの味付けのバーべキュー)は安心できるものだった。

~一口メモ・サマルカンド編~
「青の都」サマルカンドは常にシルクロードの中心都市として栄えてきた。
存在が世界に広まったきっかけは、アレキサンドリア大王の遠征軍が到着したときに
その美しい町に大感激したときからである。
商才と工芸技術の優れたソグド人によって構築された美しい町並みは、1220年のチンギスハーンの来襲により壊滅状態となった。
しかし、サマルカンドを蘇らせたのがティームールである。
各地より建築家や職人を連れ帰り、イスラム世界に名だたる都市に復活させた。
様々な建造物は6世紀を経た今でも健在である。

4日目 午前サマルカンドの観光。
「青の都」「イスラムの宝石」など様々な形容詞のあるサマルカンドの代表的な
建造物はレギスタン広場を中心に建つ3つのメドレセであろう。
天文学者ウルグベクの遺産ウルグベク・メドレセ。
青いタイルが映えるこの建物のアーチには、細かい異型のタイル模様が実に見事である。
また、ブハラのナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセが真似したといわれる、
シェルドル・メドレセはブハラのそれと同じくイスラムのタブーを破った入り口の
アーチのライオンの絵は、人の顔も描かれたちょっと不気味な感がある。
さらにはティラカリ・メドレセの礼拝所の天井は金箔が目に眩しい金色に輝いている
もので見る者を圧倒する。

次に「支配者の墓」という意味のグリ・アミール廟に行く。
ティムール一族が眠る霊廟は一般的には地上階の墓石の部分だけの観光となるが、今回は特別に地下にある墓室を見学させてもらった。
中央アジア最大のビビハニム・モスクはティムールが直接監修しながら作らせたものであるが、突貫的に作らせたためか落成後レンガの落下がつづき礼拝者がいなくなったとも言われる。現在ではドームとアーチなどは修復され問題ない?ようである。
シャーヒズィンダ廟群は簡単に言えば墓場である。

サマルカンド隋一の聖地でティムールゆかりの人々のお墓が一直線に立てられており、その一つ一つの墓がドームやアーチが作られておりモザイク模様やタイルの装飾はすばらしい。その一番奥には現代のお墓もあり、現代のサマルカンドの人にとっても聖地なのである。

観光後、キルギスへ向かう飛行機に乗るためタシケントへ戻る。所要約4時間。
そのまま飛行機にて今回の第一の目的地キルギスへ向かう。
到着は23:00。入国はウズベキスタン同様非常に簡単。時間もさほど係らず外へ。
ここで事件発生。ガイドがいない。
仕方なくしばらく待つこと30分。それでもガイドが現れないのでタクシーでホテルへ向かうことに決めたが、タクシーらしき車が全くない。周りの人に尋ねるもロシア語
(本来はキルギス語だがほとんどの人がロシア語が分かるらしい)は全く分からない。小さな田舎の空港の中をしばらくフラフラ歩き回っていると、怪しい若者が3人酔ってくる。片言の英語でタクシーを探しているのか?(たぶん)と質問をされているようだが怪しいので無視を続けていたが、周りにはこの3人以外空港職員でさえ姿が見えなくなっている。タクシーを頼もうにも人がいないのでは頼みようがない。
仕方なくその3人の1人に市内までの料金を訪ねてみる。
$100、ん~高すぎる。値切ってみる。$50ドル。あっさりとOK。これは怪しい。
とやり取りをしていると、空港内にあるタクシー会社の非常にきれいなお姉さんが現れる。この人なら英語が通じるだろうと思い事情を説明。さらに甘えて今日泊まる予定のピナラホテルに予約があるか確認してもらう。予約は入っている。
このお姉さんにタクシーを頼んだらいくらか訪ねると、なんと$8。
あわてて怪しい奴らに頼まなくて良かった。早速手続きをして、丁重にお礼を言いホテルへ向かう。約1時間ピナラホテルに到着。時間はすでに02:00を回っている。
部屋へ行くとびっくり。今回のたびの中で一番良いホテル。

たった1人にもかかわらず非常に広い部屋。ベットルームにリビングルームさらには
フルキッチンとダイニングさらにさらにテレビを見るだけのためのリビングと1人でどう使ったらよいのか?なんて考えている暇も束の間、明日のイシククル湖へはどうやって行こう?ホテルの予約は入っているのか?など考えたが、明日は明日の風が吹く
どうにかなるであろうと床についた。
ピナラホテル(室内)ピナラホテル(室内)







5日目 眠りについて間も無いと思われる時間にけたたましいTELの呼び鈴で起こされる。時計を見るとまだ6時過ぎ。向こうの声の主は恐らく昨日迎えに来るはずであったであろう女性のガイド。まだ頭の中は眠っている状態での英語での質問攻め。
よくよく聞くと、昨日はどうやってキルギスまできたのか?何時に到着したのか?
どうやってホテルへ向かったか?自分は空港で2時間も待っていたのにあなたは
全く現れない。ウズベキスタン航空に搭乗者確認をしたのにあなたの名前がない。
といった所だろうか。
こちらは間違ってはいないこと、私もかなり空港で待ったこと、タクシーに乗るまでに
苦労したことなどを話、結局わかったことはこの時期夏時間から冬時間に変わったばかりで空港に表示される到着時間が間違っていたこと、さらには私は日本出発前に
に分かっていたがフライト時間が2時間早まっていたことの確認漏れなどだったらしい。まあ、これでイシククル湖行きの心配はなくなった訳だし、全然謝らないロシア人の性格も理解しているので待ち合わせの時間を決めてTELを切った。

9時にロビーにて待ち合わせ。車に乗り込み出発。
また、昨日出来事を話す。(それにしても本当に謝らないなあーなどと思いつつ)
キルギスの歴史、文化などをひと通り説明を受けたが、睡眠不足のため眠りについてしまった。目を覚ましたときにはすでに山の中。切り立った岩山の中のきれいに舗装された道路を走り続けて行く。

イシククル湖に到着したのは昼食時間も含め約6時間。
道きれいには舗装されていて振動はないが6時間は長い。
ホテルに行く前にイシククル湖も見下ろせる小高い丘の上にある野外博物館へ。

博物館といっても大小の岩がゴロゴロあるだけ、と思ったが良く見るといくつかの(かなりある)岩に絵がかかれている。もちろん、タダのいたずら書きではなく、山ヤギの絵を中心に狩の様子や他の小動物の絵が無造作に置かれた岩のあちらこちらで
見られる。最近描かれたものではないのは当然である。
一応無造作に置かれているように見える岩もちゃんとナンバーリングされているらしい。
そこから今日宿泊のアブローラサナトリウムホテルへは30分。

チェックイン後フリータイム。
(ここのホテルは入ったとたん消毒薬の匂いのするホテルで、名前の通り療養のための宿泊施設。このあたりでは高級といわれているが、かなり古く料金の割りには
質の良くないホテルである。)

広大なホテルの敷地の(野球場がすっぽあり3つくらい入ってしまう)向こうに
イシククル湖がある。この時期は観光シーズンからはずれておりボートなども出ていないとのこと。湖のほとりにも人影が全くない。向こう岸が見えないので湖というよりも海である。写真映えする対象物もほとんどなく絵になる写真は難しい。
イシククル湖イシククル湖

~一口メモ・イシククル湖編~
イシククル湖は世界第2位の高山湖で海抜1600Mにある。
しかし、この高山の地にあるのも関わらず寒い冬でも凍りつくことはない。
名前のイシククルとはキルギス語で「熱い湖」の意味がある。
また、この湖の透明度も世界第2位であり深さ20Mまで見えるという。
ボートに乗り、湖上から水中をのぞくと湖底に沈んだ古城や集落が見えるという。

ホテルの周りには何もないので食事もホテル内にて。
イシククル湖周辺に宿泊するのであればカラコル側
(今回宿泊したチョルポンアタの湖をはさんで対岸側にある町)
夜も何も娯楽がないので、いままでのハードな旅程をカバーするため早めに就寝。

 6日目 早起きしてイシククル湖畔まで散歩に出る。やはり人影がなく寂しい。
朝食後、ビシュケクに戻る。
途中、カラハーン朝のかつての都があったブラナの塔とバラサグン遺跡へ立ち寄った。
荒野の中にタダ一つポツンと建っているブラナの塔は、かつての都があったことが
想像できるものではない。
造られた当時は45Mあったが、15,16世紀にあった地震により崩壊。
20世紀後半に修復され現在の24Mの塔が残るのみとなっている。

また、野外博物館にあるキルギス各地から集められた石人である。
石人と呼ばれる石の像は戦死の墓と思われ、ひとつひとつ違う表情を持つその顔は
非常に興味深い。

ビシュケクの町はソ連時代の色が濃くまたレーニン色の強い所がある。
これといって特色のない町ではあるが、博物館や公園が数多くあり、それらが市民の
憩いの場になっているようである。
町に見どころの少ないキルギスではもっと滞在時間をとり、自然を中心とした
地方の観光がおもしろいと思う。(アラ・アルチャ自然公園やジェティオグズなど)

7日目 立ち寄るだけといった感のあるキルギスを後にして空路再びタシケントへ
着後簡単な観光。
サマルカンドやブハラみたいな大きなメドレセやモスクではなく、首都らしく
テレビ塔であるとか、国会議事堂、バレエ劇場などが中心であるが、その中でも
旧市街の一般家庭訪問は興味深かった。

また、ジュマモスクにある世界最古の7世紀書かれたコーランは一般には絶対に公開しないものであるが、頼み込んで見せてもらった。さすがに厳重に金庫に保管されたそれは、見ただけでも重みを感じる一品である。尚、一般に公開されているのは
コピーである。

また、タシケントは地下鉄も発達しており、短い区間ではあるが乗車してみた。
地下鉄自体は普通の車両であるが、各駅はひとつひとつ異なった造りで、
宮殿を思わせる豪華絢爛のつくりは目をみはる。
そして夕食後空港へ向かう。

チェックインを済ませ出国時間のリミットまで時間があったので日本語通訳、
副社長、そして現地旅行会社の社長までが見送りに着てくれた。
もちろん最後の別れはウォッカで乾杯。
帰国の途に着いた。

今回のたびでは最初から最後までウォッカ漬けではあったか、訪れた町の観光は
充実したものであった。
ただ、すべてのメドレセの中がお土産やさんになっているのだけが、趣が半減してしまう感がある。
今度はあちこちの国へ移動せず、1ヶ国をじっくり周りたいと思う。

酒井 光浩
2002年9月

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