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ロシア~凍りつくタイガの中を駆け抜ける冬のシベリア鉄道の旅~[2003年01月22日]

ふと気が付くと私の左腕にはめてあった腕時計の存在をまったく忘れさせてくれる、そんな旅であった。今回の出発地富山空港から2時間半、もうそこは、ヨーロッパからの陸続き、広大なユーラシア大陸である。しかしながら、飛行機の窓からでは実感できず、広大さを思い知らされるのは、シベリア鉄道に乗ってからであった。

 今回のシベリア鉄道の旅は、古くから軍港として栄えていたが、ソ連時代民間人が市内に入ることさえ許されなかったウラジオストクからシベリアのパリとも呼ばれるイルクーツクまでの3泊4日、約4000kmの行程である。
 中世のお城を思い起こさせる白亜のウラジオストク駅待合室、私のシベリアの旅はここから始まった。いつも思うのが、待合室の風景は、さまざまな人の生き方が混ざり合ったどくとくの表情が感じられる。兵役でモスクワでも行くのだろうか、恋人と別れを惜しむ人、たくさんの荷物を自分の回りに置いて待つ人、待ちくたびれたのだろうか、荷物を枕にして眠っている人、列車に乗せられるのだろうか、大きな犬を連れて待っている人などそれぞれの事情を包み込んだ光景だ。

ウラジオストク駅ウラジオストク駅の待合室

17時30分、西日をいっぱい浴び1番列車の称号をあたえられたシベリア鉄道「ロシア号」は、一路モスクワに向けて走り出した。最初は、日本海の海岸線を進み、夕闇迫る海の風景が楽しめる。北へ丸1日かけてハバロフスクへ、その後、西へ向きを換え氷の結晶と化したタイガの風景が果てしなく続きイルクーツクに着く。私の席は、8号車23番4人用コンパートメントだ。どのような人と同室なのか不安を抱えて部屋へ入ると、すでに人の良さそうなおじさんが窓の外に目を向けていた。とにかくこれから4日間の付き合いである。最初が肝心と思い、旅に出る前に買った「旅の指さし会話帳」を片手に「ドーブルウィ・ヴェーチル(こんばんは)」と勇気を振り絞りあいさつ、すると相手も何かを言っている。理解で出来なかったが、おじさんの顔は笑顔であふれていた。どうやら同室者に恵まれたようだ。

シベリア鉄道車窓風景シベリア鉄道車窓風景

  2時間も走り続けただろうか、窓の外の暗闇を眺めながら、ついうとうとしていた時、何やら早走りの足音が、どうやらある駅に停車したらしく同室のおじさんが大きな荷物を持って部屋の中とデッキを何往復もしている。いったい何事かと思いながら荷物の整理を手伝っていると、年配の女性が入ってきた。(あ、そうか、奥さんが途中で乗ることになっていたのか。)と思いながら、先程の覚えたてのぎこちないロシア語でとりあえず挨拶をした。大きな荷物の謎は、ガイドブックを読んで納得、ロシアの人は、乗車期間分の食料を持ち込むらしく、さっそく、テーブル一面に食料が並び始めた。必ずといってよいほど勧めてくれるらしく、私も案の定、勧められた。メニューは、厚切りのパンとジャガイモの蒸かした物およびとりの唐揚げだった。とりの唐揚げからは、日本を離れてまだ2日しか経っていないのに、なつかしい感じが、ジャガイモからは、シベリアの大地の香りがした。

 実は、今日の夕食は、家から持参した缶詰とソーセージで済まそうと思っていたのである。というのも、ウラジオストクで500ルーブル(約2000円)財布から抜き盗られていたのだ。まだ旅は始まったばかりである。本当に痛い出費だった。革命戦士広場で写真を撮ろうとリュックサックからカメラを取りだした時、視界の片隅から警官の姿が、何か私に質問をしているのだが理解できない。このままでは、らちがあかないと見たのかパトカーの中へ連れて行かれた。リュックの中を隅から隅まで調べられ、そしてボディーチェック。最初は、威圧的に見えた顔が、最後には、笑顔に変わり無事パトカーの外へ、ホッとしたその瞬間私の脳理に何やら嫌の予感が込み上げてきた。どこの国でもそうだが、警官は、複数で行動するはずである。確か一人だった。パトカーの中も誰もいなかった。ニセ警官だったのか、と思いながら財布の中身をチェック、午前中に両替をした時、500ルーブルが8枚あったはずが7枚しかないのだ。やられたという反面、全部盗られなくて良かったと思いながら頭の中をきりかえてその日を過ごした。

シベリア鉄道食堂車シベリア鉄道乗車2日目、北へ昇って来たせいか、かなり雪深くなってきていた。あたり一面銀世界だ。この辺りは山の脇を走っているせいか景色としては、いまひとつ。何もすることがないので、車内探検に出かけた。8号車の隣が食堂車であることに気付き、ちょうどお昼どきもあって食べることにした。不安が的中、メニューはすべてロシア語で書かれている。ウエイトレスさんをみるとちょっと怖そうなおばさんだったので、もうどうでも良いやと思い適当に3品とコーヒーを注文した。出てきたのがハムとチーズそして鮭を粘っこくくずした物だった。冷たかったがとても美味であった。メニューに値段が書かれてなくて心配だったが、伝票をみてビックリ、なんと85ルーブル(約350円)であった。なんて物価の安い国なんだろう。

 3日目になると、それまでの疲れがでたのだろうか、朝、目が覚めたとたん身体がだるくなかなかベッドから起きあがることが出来ない。しかし、この辺りからの景色は、雪で覆われた白樺が太陽をいっぱい浴び輝きに満ちていた。いつまでも窓の外を眺めていても飽きることもせず、ただただ、時がゆっくりと流れていった。名も知れぬ駅に着き、停車時間も20分ぐらいあるので外に出てみることにした。駅に降り立った瞬間、肌を突き刺すような冷たい風が吹き、これがシベリアの厳しさなのかとあらためて感じた。ホームには、ピロシキやブリヌィ(ロシア風クレープ)など地元のおばさんやおじさんが自家製の食べ物を売っている。乗客であふれかえっていて、ちょっとしたマーケットという感じだ。ピロシキを2つ買って車内へ、これで今日の夕食は調達出来た。最初は美味しかったがちょっと油っこく2つ食べただけでもうお腹いっぱいになり、日が暮れた瞬間ベッドに横になり深い眠りについた。

シベリア鉄道途中の駅にてシベリア鉄道途中の駅にて

バイカル湖シベリア鉄道も最後の日をむかえ今日の15時40分には、イルクーツクに着く。朝の10時ぐらい、つい、眠っていたら突然同室のおじさんに起こされた。バイカル湖が窓の外に現れたのだ。こんなに早くバイカル湖を拝見出来るとは、まだイルクーツクに着くまで5時間以上もある。本当に広い湖なんだなあと思った。確か琵琶湖の50倍はあると聞いている。1番深いところで1620m、それなのに1月になると一面氷の世界になるのだから、自然の力を感じずにはいられない。シベリア鉄道に乗るもうひとつの目的にバイカル湖を肴に食堂車でコーヒーを飲むつもりでいた。昼食も兼ねて食堂車へ、3回目という事もあって、ウエイトレスさんにも顔を覚えられたのか、メニューでどれにしようか迷っているうちに、メニューに指を指すのがみえた。どうやら選んでくれているらしく、勧められるままに肯いた。出て来たのは、ハムエッグだった。ようやく朝食らしい朝食にありつけたなあと思い、とても嬉しくなった。今まできづかなかったが、コーヒーを片手にバイカル湖が果てしなく続く風景を眺めて時の経つのをわすれる、これこそが本当の求めていた旅だったのかも知れない。

 同室のおじさんとおばさんとの別れの時が近づいていた。夕食を差し入れしてくれたお礼に、焼肉と鯖の缶詰と記念に割り箸・会社の名刺・会社のステッカーをあげることにした。「ジャパニーズ・フード」と声をかけ、相手も愛想良く受け取ってくれた。15時40分、定刻通りイルクーツクへ着き、日本人ということもあって珍しかったのか、降りるとき握手攻めにあった。こうした人との出会いが、シベリア鉄道に乗る最大の目的であることに気付いた。

 シベリアを旅することで、避けて通れないことがある。日本人抑留者のことを考えずにはいられない。終戦を迎えながら、日本に帰ることも許されず強制労働をさせられ、残された家族を思いながら何人もの人がシベリアの地で生き絶えたか。しかし、私自信、戦後生れのこともあってその事には全くといって良いほど無知であった。前もってガイドブックで知ることは出来たが、本当に実感できたのは、旅を終え富山空港で飛行機から降り立った時であったかもしれない。

赤崎 新一
2002年12月

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