ポーランド再訪、そして急遽行くことになったリトアニアへ

10年近く前、一度訪れたことのあるポーランド。ワルシャワとクラクフをさっと見ただけで、私はポーランドの魅力を知っている気分になっていた。このゴールデンウィークに再訪して、この国の奥深さを知り、自分の認識がいかに希薄であったかを思い知った。印象に残った場所は片手では数えられないほどだった。今回はその中の代表的な観光地をご紹介しよう。・・・そして最後に訪れることになったリトアニアのカウナスのことも・・・

ヤスナグラ僧院/黒いマドンナ

ヤスナグラ僧院

優しいシスター

■奇跡の黒いマリア像に会いたい ・・・・チェーンストホーヴァのヤスナグラ僧院

「チェーンストホーヴァの黒いマリア像」
そう書いた小さなメモ用紙を、今回のポーランド行きの2ヶ月以上前から、私はずっと自分の机に貼り付けていた。
「ポーランドへ行くならチェーンストホーヴァへ行った方がいいですよ」そう私にアドバイスしてくれたK氏は、リピーターのお客様で、かつてポーランドに仕事の関係で2年間も住んでいたことがあるという話だった。

今回の行程にチェーンストホーヴァは入れていなかった。時間的に難しいだろうと諦めつつも、そのメモは大事に貼ったまま出発の1週間前を迎えた。
クラクフから西のヴロツワフまでの移動手段を手配しようと調べると、7時間もかかるという列車の不便さに驚いた。専用車をチャーターすることとし、それなら少々遠回りだが、北上して2都市の間に位置するチェーンストホーヴァへも足を延ばせそうだ。
決まり!旅の間際に急遽変更することとなった。

クラクフから車で約2時間。チェーンストホーヴァはまさにポーランド人にとっての聖地なのだった。ヤスナグラ僧院にある黒いマリア像こそ、カトリック教徒にとっての奇跡のマドンナと呼ばれる信仰の対象だ。日々多くの信者がミサに訪れ、毎年8月15日にはポーランド中から国民が集まる。中には10日以上かけて歩いて巡礼にやってくる人々も多いそうだ。
黒いマドンナの聖画は、エルサレムからビザンチウム(コンスタンチノープル)を経て、1384年にこの僧院に寄贈された。1655年のスウェーデン軍のポーランド侵攻の際も、この僧院だけが黒いマリア像によって守られたと言う伝説がある。
僧院と、併設する博物館を案内してくれたのはここのシスター、カロリンさんだ。ポーランド人が今も多く住むアメリカの町シカゴで6年間暮らした経験があるそうで、英語が堪能である。ミサの最中でも脇道をどんどん進み、信者の前を堂々と横切り、私を黒いマリア像のちょうど斜め下のところまで連れて行ってくれた。さすがはシスターさんだと嬉しくなった。

ミサ真っ最中のヤスナグラ僧院

ヤスナグラ僧院

■「マリア像の頬のキズから血が流れた!?」

ゴシック様式に後バロック様式の装飾が加わり、24金も多用された僧院の内装は豪華の一言に尽きる。ただしそれは決して華美なものではなく、不思議なほど心が豊かになる、優美で厳かな空間を生み出している。これほど訪れる人に感動を与えてくれる場所は、そう多くはないだろう。ガイドブックにもほとんど記載がなく、世界遺産でもないのが不思議なくらいだ。
マリア様の右頬には傷がある。盗まれ4つに切られた時に傷が付き、その部分だけはどうしても修復できなかったそうだ。今にも傷口から血が流れそうな気配がした。それが、後で聞くと実際にその傷口から血が流れたと言う言い伝えもあるというから驚いた。また、どうして黒いマリア様なのかというと、決して黒人と言うわけではなく、長い年月の後に絵が黒ずんできたためだと言う。
博物館には世界各国の著名人からの僧院への寄贈の品々が展示されている。アメリカはケネディー大統領の贈り物や、ワレサ元大統領のノーベル賞のメダルなどなど数え上げたらきりがないほど。この僧院がいかに大切な存在かが一目瞭然であった。

予定していなかったこの地への訪問は、今となっては運命だったように思えてならない。あのメモを捨てなかったのも、きっと、とても大事なことをおろそかにはできないと心の奥底で思ったからだろう。ここのことを教えてくれたK氏には感謝の気持ちでいっぱいだ。ポーランド人にとっての大切な聖地は、私にとっても間違いなく一番印象に残った場所であった。
これからはポーランドへ行くすべての人に私はこう言うだろう。
「ポーランドへ行くならチェーンストホーヴァへ行ったほうがいいですよ」

ヴィエリチカ岩塩坑/彫刻が見事

ヴィエリチカ岩塩坑/最後の晩餐の彫刻

ヴィエリチカ岩塩坑/バロンチの間

ヴィエリチカ岩塩坑/聖キンガ礼拝堂

ヴィエリチカ

カフェで

ポーランドの代表的なスープ・ジューレック

■驚異の地底世界…ヴィエリチカ岩塩坑

今回のポーランドの旅で行く前から最も楽しみにしていたのが、実はこのヴィエリチアだ。かつて読んだ小説(題名は忘れたが)で、美しいシャンデリアや彫像など、何から何まで塩でできた地下世界に紛れ込んだ主人公の冒険記は、たしかに今考えてもここが舞台だったと思う。実際にポーランドにそんな岩窟坑があると知り、夢は膨らんでいた。

クラクフから30分もかからずにヴィエリチカの町に着いた。この旧市街の町並みの下には、全長300㎞もの岩塩坑がアリの巣のように地下を張り巡っているのだ。地下64mから327mの深さに及んでいるが、見学できるのは全体の100分の1ほどという。それでもガイド付きの徒歩ツアーで2時間はたっぷりかかる。

まずは380段もの階段を延々と降りていく。それだけでも、よくぞここまで深く掘ったものだと感心していると、その後目の前に繰り広げられる光景に、誰もが驚愕してしまうのだ。地底には水が溜まり地底湖となっている。塩分が飽和状態の塩湖である。

13世紀から岩塩の採掘が始まり、当時は金と同じくらいに価値のあった塩。この国は塩によって発展し、採掘工のステイタスも高かったそうだ。彼らは給料のほかにボーナスの現物支給もあった。手のひらに持てるだけの塩をもらえたから、手の大きな男が得をしたのだという。

採掘現場の様子も人形を使って再現しているのでよくわかる。採掘工の中には素晴らしい芸術家もいた。彼らが趣味で彫り上げた彫像やレリーフも塩だ。18世紀になると観光客もこの地を訪れるようになり、中にはゲーテやショパン、コペルニクスもいたそうだ。その記念に採掘工が彫り上げた彼らの彫像も飾ってあった。

そして、ヴィエリチカの最大にして最高の見どころが広大な「聖キンガ礼拝堂」であろう。高い天井からぶら下げられているいくつもの豪華なシャンデリアは、塩でできているとはとても思えない煌びやかさで、下から見上げると大輪の花火のように美しいですよ、とガイドさん。思わずシャンデリアの下に立って首を上に見上げる私。本当に大輪の花火のようだ。礼拝堂の壁に飾られた「最後の晩餐」のレリーフも岩塩に掘られた素晴らしい作品だ。この礼拝堂では日曜に実際にミサが行われているそうで、さすがに静謐で厳かな空気が流れていた。

たっぷりの見学を終え、たくさん歩き疲れたら、最後はエレベーターで上まで。1秒間に4mも上昇する高速エレベーターはまさしく現代のシロモノだ。地下の暗闇の中世の世界から、一気に明るい現在へと私を舞い戻してくれた。そしてそこには・・・・
岩塩のミネラル豊富な料理用ソルト、ガーリックやハーブ入りソルト、色鮮やかなバスソルトに石鹸などなど。どれもがきれいに並べられたお土産のショップがにこやかに我々を待ち構えていたのだった。

 

 

負の世界遺産アウシュビッツ

アウシュビッツ

■アウシュビッツからカウナスへ・・ユダヤ人の悲しい時代を思いつつ

~人類の犯した罪の遺産をこの目で確かめにオフィシエンチムまで~
人類の負の遺産は数あれど、その筆頭に数えられるのは、間違いなく絶対にアウシュビッツであろう。あまりにも有名なナチスドイツによるユダヤ人収容所。ドイツ語はアウシュビッツだが、地元ポーランド語ではオフィシエンチム。

当時のナチスドイツにとっては世界の中心がアウシュビッツであった。人間と呼べるのは自分たちの仲間だけで、虫けら以下とみなした130万人ものユダヤ人を次々に虐殺した「殺人工場」。その跡はあまりにも重く、暗く、狂気に満ちていて、正視するのがためらわれるシーンの連続であった。
どのようにしてユダヤ人を集め、列車でこの地へ連れてきて、労働かガス室送りかの「選別」をして…ガイドの説明にその都度驚かされる。信じられないほどの毛髪の山(これを編んで布地を作ったとか)靴の巨大な山、メガネや髭剃りの山。ユダヤ人の新しい世界へ連れて行ってもらえると希望を持って、鍋や皿などの台所用品を持参した女性たち。騙されて殺されるとも知らずに。ここを訪れる人々は誰もがあまりの悲惨な事実に絶句し、目をみはり、怒りのエネルギーが充満しているのがわかる。
殺されたユダヤ人の写真も壁いっぱいに展示されている。なにひとつ悪いことなどしていない善良な人々が囚人服を着せられている。写真の下には生年月日、名前、収容された日、殺された日。収容されて1年もたたない人も多い。もっとひどいのは、写真も記録も何もなく、ここへ着いたらすぐにガス室行きというユダヤ人がものすごい数で、把握できなかったほどだそうだ。

こうしたことは原始時代におこなわれたのではもちろんない。1940年ころ、第2次世界大戦中だから、今から70年ほど前のことなのだ。これほど狂った出来事を世界中の誰ひとり止めることができなかったのが不思議である。

イスラエルからやってきたというユダヤ人の学生のグループに出会った。自分たちの祖祖父母の世代の悲劇をあまりにも生々しく目の当たりにした彼女たちは辛かったはずだ。それでも自分たちは見ておく必要があると意を決してやってきたのだという。
女子生徒の一人は泣き出して女友達に抱かれ慰められていた。その姿が今も目に焼き付いて忘れることができない。

杉原記念館

杉原記念館

杉原記念館

リトアニア旧市街

リトアニアの新婚カップル

■「希望の門・命のヴィザ」杉原記念館へ

本当は今回の旅は、ポーランドの後にウクライナへ飛ぶ予定だった。昨今のウクライナ情勢に、行き先を急遽バルト海諸国に変更したのだが、以前から訪れてみたかったリトアニアのカウナスへの道が開けたのだった。「日本のシンドラー」の異名を持つ杉原千畝氏がユダヤ人を救った舞台が、ここカウナスである。アウシュビッツの後にカウナスというのが、ユダヤ人をテーマにした2つの場所として、期せずして繋がりのある旅となったわけだ。

アウシュビッツで犠牲になったユダヤ人は130万人であったが、ポーランド以外にもドイツをはじめヨーロッパ中に収容所が作られ、全体で犠牲になったのは600万人に及ぶという。ナチスがそれを決定したのは1942年のヴィンゼー会議においてで、その後ヨーロッパ中のゲットー(ユダヤ人居住区)から毎日のように収容所へ輸送した。ナチスの横暴を止める者はいなかった。世界中が皆、見て見ぬふりをするしかなかったそうだ。「沈黙という加担」を余儀なくさせたのもナチスであった。

そんな中、1940年にユダヤ人を6000人も救った日本人がカウナスに存在していたそれが当時カウナスの日本領事部で副領事をしていた杉原千畝氏であった。ポーランド系ユダヤ人がナチスの迫害を逃れリトアニアに移り住んでいたが、ここでもユダヤ人狩りは始まっていた。唯一逃れる道は日本経由でアメリカやオーストラリアへ向かうこと。日本の通過ビザ発給を願い出て、カウナスの日本領事部の前にはユダヤ人の列が押し寄せたのだった。
今では杉原記念館となっているその領事部跡を訪れた。リトアニア北部の古都カウナスの住宅地にひっそりと建つ小さな家であった。看板がなければ通り過ぎるところだった。
その看板には「希望の門。命のヴィザ」と書かれていた。
当時、日独伊3国同盟により、ドイツに反する行動は当然難しかっただろう。日本の外務省からの許可もないまま、結局6000人のユダヤ人を亡命させるためのヴィザを書いた杉原氏。リトアニアを占領したソ連がカウナスの全外国大使館の即刻閉鎖命令を下した状況下、1940年7月から8月、1日18時間、毎日毎日手書きのヴィザを発行した。自身もこの地を退去してベルリンへ向かう列車の窓から最後の1枚のヴィザを投げて渡したというエピソードも残っている。

6000人というと犠牲になったユダヤ人の1000分の1である。だがそのユダヤ人が命を救われ無事シベリア鉄道でウラジオストックへ、そこから定期船で福井県の敦賀港へと半年がかりで苦難の末にたどり着いた。当時を語るユダヤ人のインタビューを記念館のビデオルームで観ることができた。迫害されることもなく、親切に受け入れてくれた敦賀は彼らにとってまさに天国であった。その時生まれた赤ん坊が今は60歳となり、アメリカの町で孫やひ孫もいる大家族の中で幸せに暮らしている。

「スギハラは私たちの命の恩人です。ツルガの港が船から見えたときは、そこがパラダイスのように輝いていました」そのユダヤ人女性の喜びと感謝の言葉が胸を打った。杉原氏の偉大な行為が同じ日本人として誇らしかった。
アウシュビッツで感じた無常や腹立たしさが、ここへきて少しだが明るい気持ちになれた気がした。

 

※参考資料「杉原千畝ガイドブック」
(千畝ブリッジングプロジェクト制作)